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ドラマー陽のつれづれmemo. drums, mac, etc.

対話とは互いの心と心が理解しあうこと。言葉は多くの場合、心を隠す役しかしない

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もうだいぶ古い漫画ですが、「花の慶次」で心に残った言葉の一つ。慶次が叔父である前田利家に「なぜそんなに私を憎むのか?」と問うたやりとりでのこと。「知らん」と答えるのを拒絶する利家に、慶次は抜刀し「 主 主たらずば 臣 臣たらず! さあ理由を!」 とせまり、「荒子城」の件を利家が未だにひきずっていることを引き出す。

「荒子城」とは、利久(慶次の義父)から養子の慶次に受け継がれる予定だった家督が、利家の横槍により信長の鶴の一声で利家に決定した際、慶次と奥村助右衛門が立てこもり、最後まで拒否・抵抗した事件のこと。

多数の兵士がいるように見せかけて、実は、篭城していたのは慶次と助右衛門だけだった。そして慶次は開場の後、猿をつかった寸劇で、殺意にギラついていた家臣たちを笑いの渦に巻き込んでしまう。その時、利家は慶次のカリスマ性に心底怯え、「いつかおまえを殺らねば」と思ったというもの。

「おれは人に好かれたことがない。ただの一度もだ。なのになぜおまえばかり。くそぉ!!おまえにそんな気持ちがわかるか!!いいか前田家はおれのものだ!!」慶次は、あえて利家と語り合うことをやめた。対話とは互いの心と心が理解しあうことだ。そして、言葉は多くの場合、心を隠す役しかしない。(花の慶次・第三巻より)

恐れの存在、力の差を意識することなどで(言い方を変えれば、人間の器により)、自己開示の度合いは大きく異なる。それは時に、(他方からどう働きかけても)どうしようもないことがある。

開示しよう・分かろう・共感しようという気持ちなしに言葉だけを交換しても、心は通じ合わない。理解し合えない。言葉を満たす前に、必要な心構え、なっておくべき気持ちというものがあるのだ、ということを言っている気がする。

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